建物探訪
関西の名建築を訪ねて、モチベーションアップ。
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2018.12.07
大阪市中央公会堂(以降、公会堂)は、ネオ・ルネッサンス様式の歴史的建築物として、いつの時代も中之島のシンボルとなってきました。誰でも利用できる現役の公会堂でありながら、芸術性の高い建築物として国の重要文化財に指定されており、「最も格式高く、最も敷居が低い」文化財として、多くの人々に愛され親しまれています。(写真提供:大阪市中央公会堂)
公会堂は、当時の一流建築家13名による設計コンクールで1等となった岡田信一郎氏の元案をもとに、東京駅などの設計で有名な辰野金吾氏と大阪工業大学創始者の片岡安氏が設計を担当。時は第1次世界大戦の最中、大正2年春に着工し、のべ18万4千人の職人と5年の歳月を経て大正7年10月に完成。翌11月17日に公開を行ったところ、日本一の公会堂を見ようと、3日間で約10万人の市民が訪れた。
構造は鉄骨煉瓦造で、当時1階の大集会室の上に大食堂を配置するための鉄骨の梁をかける難工事を、責任者の片岡安氏は、「落ちてきたらともに死ぬ」覚悟で見守ったという。各部屋の意匠、ステンドグラス、シャンデリア、階段や扉のデザインにまで、当時の建築技術の粋を集めた公会堂は、日本一の公会堂として、近代大阪の文化・社会史に深く関わってきた。
公会堂は、ひとりの大阪市民、岩本栄之助氏の寄付をもとに竣工した。岩本氏は、明治から大正時代にかけて大阪の株式界で活躍した人物で、アメリカの富豪たちが公共・慈善事業に熱心なことに共感した彼は、友人に「大阪はこれだけの都市なのに公会堂がない。公会堂を造ろう」「自分ら若造の商人がやるのはせんえつだとは思うが」という趣旨を語り、約100万円(現在の価値で50~100億円とも)を大阪市に寄付。東洋のカーネーギーホールたらん公会堂の建設が決定した。
しかし工事が進む中、株式相場で苦境に陥った岩本氏に対し、市が資金を返すという話が浮上したが「一度寄付したものを返せというのは大阪商人の恥」としてこれを拒否。公会堂の完成を見ることなく、自らの手で39歳の波乱の人生を終える。その後、平成の世に入り長い年月を経て老朽化が進んだ公会堂は、今度は約1万3千人もの市民や企業から〈赤レンガ基金〉と呼ばれる募金活動で集まった7億円あまりの資金などにより美しく蘇る。岩本氏の精神を受け継いだ多くの民間の力に支えられ、これからも庶民の街、大阪のシンボルとして愛されていくことだろう。
永久保存が決議された公会堂の再生工事は、単なる復元改修に留まらず、総重量3万トンとも言われる公会堂全体を、そのまま免震構造に乗せるという技術〈免震レトロフィット〉、スロープやエレベーターの新設などハード面を改善。あわせてソフト面でも、2006年から民間企業のサントリーパブリシティサービスグループに運営を委託するなど、時代のニーズに応えて次世代まで活用できるよう変化をとげた。特に100周年を迎える本年は、アートシーンとのコラボや様々なイベントが行われ、今までにない新たな顔を見せている。過去と現在が融合し新しい未来をひらく。常に変化と成長を見せる公会堂はまさに「生きた建造物」と言えるかもしれない。短い一生を終えた岩本氏により生をうけた公会堂は、新しい100年に向けて、これからもその精神とともに永遠に生き続け、人々を魅了していくに違いない。
名称 | 大阪市中央公会堂 |
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用途 | 公会堂 |
設計者 | 岡田信一郎(設計原案)、辰野金吾(建築顧問)、片岡安(工事監督) |
施工 | 直営工事 |
構造形式 | 既存部:鉄骨煉瓦造+増築部:RC 造 |
階数 | 地上3階、地下2階、塔屋付 |
敷地面積 | 5,641.81m2 |
建築面積 | 2,330.35m2(既存部2,164.17+増築部166.18)m2 |
延床面積 | 9,886.56m2(既存部8,425.04+増築部1,461.52)m2 |
着工 | 1913年(大正2年)6月28日 |
竣工 | 1918年(大正7年)10月31日 |
改築 | 2002年9月保存・再生工事完工 |
所在地 | 〒530-0005 大阪府大阪市北区中之島1丁目1番27号 |
重要文化財
指定日2002年(平成14 年)12月26日
※建物概要は、Wikipediaを引用しています。